雛祭りと五節句

江戸幕府がこれらの五節句を式日と定めたのは、従来の宮廷の伝統的節会を踏襲する意味がありました。
しかしそれ以上に、武士社会と密接な関係がある農村地帯の民俗的な節日を受容し、これに中国式の解釈を施して形成されたと考えられています。
五節句には、3月3日、5月5日のように奇数の重なる日が選ばれていますが、これも中国の考え方の影響です。
ただし1月だけは1日(元旦)を別格とし、7日の人日(じんじつ)を五節句の中に取り入れています。
「五節句」の制度は明治6年に廃止されましたが、民間行事として定着しています。
五節句は季節の草や木に関連していますが、季節に応じた植物を食することで邪気を払うのが目的でした。
人日(じんじつ) | 正月7日 | お正月の七草 | 七草粥 |
---|---|---|---|
上巳(じょうし) | 3月3日 | 3月の上巳の桃・よもぎ | 桃花酒→江戸時代以降は白酒 |
端午(たんご) | 5月5日 | 5月の端午の菖蒲 | ちまき→江戸時代以降は柏餅 |
七夕(しちせき) | 7月7日 | 7月の七夕の竹・瓜 | さくげ→江戸時代以降はそうめん |
重陽(ちょうよう) | 9月9日 | 9月の重陽の菊 | 菊酒 |
1月7日・人日(じんじつ) 七種(ななくさ)の節句

中国の古俗に、1日から6日までは獣畜を占い、7日には人を占うところから人日といいました。
日本では正月の初めの子の日に若菜を摘む春の野遊びの風習があります。
これが中国の故事と習合したものと言われています。
新しい年の初め、一年の健康を祈る日に、春の訪れを予感させる若菜を粥に仕立てて食べ、年中の無病息災を祈ります。
この七草粥の行事は、813年に嵯峨天皇に若菜の御膳を奉ったのが始まりとされ、宮中の行事としていたのが、江戸時代に公式の節句として定められました。春の七草…芹(せり)、薺(なずな)、御形(ごぎょう)、はこべら、すずな、すずしろ、仏の座(ほとけのざ)の7種類の春の草をいれたかゆを食べます。

子どもが無事に健やかに成長するよう願いを込めた、魔除け・厄払いのお守りです。
毎年、12月中旬~1月中旬頃まで飾って楽しみます。
3月3日 上巳の節句→桃の節句→雛祭り

上巳の日を忌むべき日とされた始まりは、 漢の時代のエピソ-ドからとされています。その時代の「徐肇」という人に女の三つ子が生まれましたが、三日後に三人とも死亡してしまいました。
人々はこれはきっと何かのたたりだと、水浴をして忌み汚れを流し禊(みそぎ)をおこないました。この日がちょうど初の巳の日であったのだそうです。
これが上巳の祓(はらい)の行事が生まれた始まりと言われています。
日本にも古来より、人形(ひとがた)に不浄を託して川や海に流して、災厄を祓うという風習がありましたので、この二つが合体して「上巳の節句」となりました。
桃の節供と呼ばれるのは、その季節のものというのも理由のひとつでしょうが、桃には邪気を払うという魔除けの信仰があったからだそうです
5月5日 端午(たんご)の節句

「端」とは初めを意味する言葉です。五月とは限りませんでしたが、中国の漢の時代以降には五月五日のこととなりました。
五月は、春から夏への季節の変わり目にあたり、疲れが出たり病気になりやすい頃です。
端午の節句に菖蒲湯に入浴したり、菖蒲の酒を飲み、菖蒲枕に眠るなど、その時期に盛りを迎える菖蒲を様々な形でふんだんに用いているのは、菖蒲には、その葉から出る強い香りが健康を保ち、邪気を祓(はら)う力があると信じられ、薬効だけでなく、家の軒に菖蒲を飾って邪気を祓うという迷信から始まりました。
五月は季節の変わり目で、悪月とされ、五月五日生まれの子供は成長すると親に害をなすという俗信がありました。
この日には百草を踏み、薬草として用いられた蓬(よもぎ)で人形(ひとがた)や虎の形に作ったものを門戸にかけて毒気を払ったと言います。菖蒲も重要なものでした。「菖蒲かずら」として冠や髪飾りに取り付けて厄除けとしました。
宮廷では端午の当日には、菖蒲を屋根に葺き、薬玉を作って身に帯びました。
江戸時代になると、民間でも 菖蒲の長さを競う「根会わせ」の競技や、菖蒲立ちを腰に差して「印地打ち」などの行事となってゆきます。
中世以降、「菖蒲」は「尚武」(武を尚ぶ)に通ずることもあって 、男子の節句として盛んになりました。
7月7日 七夕(たなばた)の節句

691年の持統天皇の頃からすでに行われていたもので、中国から伝わった牽牛星と織女星の星祭り伝説と日本の古来からの「棚機つ女(たなばたつめ)」の伝説が合成されて七夕の日として定着しました。女子が裁縫や手芸、書道の上達を願う行事でもあります。
7月7日は令に定めた節日のひとつで、古来の神祭の日としての天皇相撲御覧と文人による七夕の賦詩の宴が行われましたが、平安時代になって、相撲の儀は変更されて星の祭りとして盛んになりました。
江戸時代には五節句のひとつとして広く一般ににも行われるようになり、この日は邪気を払うために、索餅・冷素麺を食することも行われました。
和歌や願い事を書いた五色の短冊・色紙・切り紙細工を笹竹にとりつけて、家ごとに掲げる楽しい祭りとなりました。
9月9日 重陽(ちょうよう) 菊の節句

明治以降は急速にすたれ、現在では菊の品評会を開く程度になってしまいました。
中国の陰陽五行思想では奇数のことを陽数といい、特に九月九日は九という陽数が重なる(重陽)めでたい日として重んじました。この日には主に長寿を願う祓い事が催され、菊の花が邪気を払い長寿に効くと信じられていたので、菊の花びらを浮かべた菊酒を飲みました。
中国には、この日「登高」称して丘にのぼり、一日の行楽に山野を眺めながらの酒宴をひらき気を養う風習がありました。
酒宴では、髪に赤いカワハジカミの実のついた枝をさして菊花酒を飲み、長寿と共に邪気を祓(はら)い災厄を除くことを願ったといいます。
カワハジカミの実は体内の毒気を除く妙薬、菊は延命長寿の霊薬と考えられていたのです。
日本でも、天武天皇のころから菊花の宴が行われるようになり、平安時代には「菊綿(きくわた)」という風習も行われるようになりました。
「菊綿」は、「菊のきせ綿」ともいい、八日のうちに菊の花の上に真綿をかぶせておき、翌九日の朝、菊の露でぬれたその綿で肌をなでれれば、若さを保つことができるといわれ、平安時代の女官たちの間でもさかんに行われていたようです。